お米 is ライス

C#やらUnityやらを勉強していて、これはメモっといたほうがええやろ、ということを書くつもりです

大国主・少彦名・大物主についての妄想

はじめに

さて、まず表題の名前が何だか知っているでしょうか?
そうです、日本神話の中でも特に有名な「国作り神話」に登場する神様たちの名前ですね。

大国主は、かの素戔嗚命の子孫で、日本の国を作ったそれはそれは偉い神様です。「国作り神話」の主人公でもあります。
少彦名は海のかなたから船に乗ってやってきて、大国主の国作りを手伝った神様です。
そうやって二人は国を作っていたのですが、少彦名はある日常世へ旅立ってしまいます。当然、大国主は困ってしまうわけなんですが、そんな時にふたたび海の向こうから「私を祀れば助けてやる」といって現れたのが大物主という神様です。

大国主は出雲の神様で、大物主は奈良の桜井・三輪の神様というのは日本神話好きな人ならばごく当たり前に知っている話なのですが、少彦名だけはどうもどこの神様なのかあいまいとしています。
今回はこの少彦名の出身地を勝手に想像し、それをもとに「国作り神話」というのが一体どういう物語なのか、ということについて妄想していきたいと思います。

少彦名の出身地

少彦名に関する記述というのは正直なところ、かなり少ないと言わざるを得ません。しかし、その中に重要なヒントが隠されています。

天満宮について

まずは一つ目、少彦名の登場時、少彦名の正体について、神産巣日神が「自分の手のひらから生まれた神だ」と言及する記述があります。
以下のサイト
吉田一氣の少彦名神考察
では、そこから「手間神社」で少彦名を祀るようになり、さらにそれが転訛して「天満神社」すなわち現在菅原道真を祭神としている「天満宮」のもととなったのだ、と言っています。
当然、インターネット上の情報というのは簡単に信用してはいけない、というのが常識なのですが、しかし「なるほどな」と思うところがあるのも確かです。また、この記事もインターネットの一部でありますので、難しいことは考えずにこの案を採用したいと思います。
すなわち、「天満宮」の総本社である「太宰府天満宮」でも、もともとは少彦名を祀っていた、ということにします。ここでさらに論理を飛躍させると、太宰府天満宮が影響力を持っていた九州(の一部の地域、特に北九州)では少彦名を信仰していた、ということになります。

神功皇后の和歌

二つ目に、神功皇后が詠んだ和歌について言及したいと思います。
つまり、以下のサイト
神功皇后 千人万首
にあるような、「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世にいます 石立たす 少名御神の 神祷ぎ 寿ぎ狂ほし 豊寿ぎ 寿ぎ廻し 献まつり来し 御酒ぞ 乾あさずをせ ささ」という和歌です。
この和歌について、素直に考えると「神功皇后の当時から少彦名は酒の神様として有名で、お酒の歌を詠むときに少彦名を絡めて詠んだのだ」程度にしか思いません。
しかし、本当にそうでしょうか?
日本酒の起源であるとされる物語には以下のサイト
日本酒の登場する神話・伝説
にもある通り、様々なものがあります。
今話題にしている三神(大国主・少彦名・大物主)についてだけでも、それぞれが酒の起源であるとする神話があります。
そんな中で、どうして神功皇后は酒の神様として少彦名を選んだのでしょうか?
というわけで、ここで少し神功皇后の物語についても触れておきましょう。

神功皇后の物語

神功皇后仲哀天皇の妃で、その名を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といいます。仲哀天皇熊襲(九州南部)を攻めようとしたときに占いによって神託を受け、「朝鮮半島のほうがいいぜ」と主張しますが仲哀天皇はそれを無視し、結果仲哀天皇は死んでしまいます。
そのとき神功皇后はすでに身ごもっていたのですが、身重の体でありながら朝鮮半島へ攻め入り、降伏させます。その後、九州の宇佐というところで出産して産まれたのが応神天皇です。
のちに神功皇后応神天皇を連れて畿内へと帰りますが、その時に応神天皇の異母兄である香坂皇子・忍熊皇子が反乱しますがこれを下します。
というわけで、無事に応神天皇畿内へ帰り、天皇になったのでした。

というのが神功皇后の物語です。
さて、この物語を見ると神功皇后が九州という土地に非常に関係の深い人物であることがわかります。「香椎宮」・「宇佐神宮」という、神功皇后を祭神とする神社も九州にあります。
さて、ここで話を戻しますと、神功皇后が数ある酒の起源神の中から少彦名を選んだのはなぜか、という疑問でしたが、「神功皇后は九州と縁が深いので少彦名を選んだ」というように推測すると、「神功皇后は少彦名を酒の神として信仰する九州出身の一族を出自としていたので、自然と和歌にも少彦名を選ぶことになった」と考えるのが妥当ではないでしょうか?
これに従えば、「少彦名は九州地方の人々によって信仰されていた神である」ということが言えるのではないでしょうか?

さらに、もう一つだけ神話を紹介しましょう。

道後温泉の起源神話

道後温泉というのは愛媛県松山市松山城のすぐ近くにある有名な温泉です。
この温泉についても起源神話というのはいくつかあるのですが、そのうちの一つに少彦名は登場します。
曰く、出雲から出発して伊予(愛媛県)のあたりを旅していた時のこと、少彦名は病に侵されてしまいますが、大国主大分県別府温泉から湯を引いてきて少彦名をそれに浸からせたところ、たちまち病が治った、という神話です。
この神話で注目してほしいのは、九州地方にある別府温泉から引いてきた温泉に入った結果、少彦名が回復したということです。
日本には「産土」という、土地ごとに産土神がおり、その土地で生まれたものを生まれてから死ぬまでずっと守ってくれているという考え方があります。
この神話はまさしく「産土」の思想により、故郷の土地の湯に宿る産土神の守護によって少彦名が回復した、という物語なのではないでしょうか?
こう考えるとますます少彦名が九州地方の神であるということが信憑性を持ってくるような気がします。


ここまで3つの話を通して少彦名が九州地方で信仰されていた神なのではないか、ということを推測しました。
あくまで推測であり、どこにも確証のない話ではあるのですが、かなり説得力のある主張ではないでしょうか?
というわけでここからは少彦名が九州地方の神様であるということで話を進めていきます。

国作り神話

ではやっと本題に入りまして、国作り神話について、紐解いていきましょう。

2神の出会い

さて、少彦名は九州の神であるということになりました。すなわち少彦名イコール九州勢力として神話を読み替えることができます。
とすると、国作り神話の大国主と少彦名の出会いの部分をこう説明することができるようになります。
つまり、「大国主は出雲地方の象徴であり、少彦名は九州地方の象徴である。少彦名は海の向こうから船に乗って大国主に協力しに来た。つまり海(瀬戸内海・関門海峡、あるいは日本海のことかも)を超えた同盟関係により出雲地方の人々と九州地方の人々が手を結び、日本を支配しようとした。」ということです。海の向こうから来たということで少彦名を渡来人ではないかとする説もあるようですが、こちらのほうがずっともっともらしいとは思いませんか?
「船に乗ってやってきた」という部分についても、神武東征にあるように「九州地方の人間が船に乗ってどこか別の土地へ行く」という話は他にも存在するので、これも少彦名が九州地方の神であるという説を支持するものになるのではないかと思います。

国作り

そうして出会った2神は国作りを進めていきます。
この国作りではどこが最終目的地であったかというと、後に天孫の子孫である天皇家が朝廷を開くことになった土地、すなわち大和のことでしょう。
九州地方の勢力の協力により奈良県北部・橿原の地にたどり着いた出雲地方の勢力はその土地の土着の豪族である三輪氏の人々と手を結びます。その前か後かはわかりませんが、せっかく仲良く国を作ったものの結局九州勢力と出雲勢力は仲違いをしてしまい、それが「少彦名が常世へと旅立った」という物語へと変わっていったのだと思われます。そうして九州勢力の代わりとなる土着の勢力である三輪氏と親密になったことが、「大物主を祀った」という伝説に変わったのではないでしょうか。
ここで一つ疑問が残ります。せっかく苦労をして大和の地へたどり着いた九州地方の勢力はどこへ行ったのでしょうか?みすみす九州まで引き返したとのでしょうか?
ここで登場するのが先ほど話題に上がった「神功皇后」という人物です。

九州勢力のその後

出雲勢力と実際に仲違いをしたのかどうかはわかりませんが、九州勢力は大和朝廷の主流派ではなくなりました。
しかし、大和朝廷のある橿原という土地から少し離れたところで依然として強い勢力を持っていました。それが、神功皇后をはじめとする人物の母体となっていたある一族です。
先ほど、神功皇后の名が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)であるということを言いました。この名が示すのは、神功皇后が「息長(おきなが)氏」という一族の出身であるということです。息長氏は奈良県京都府の境目付近、あるいはそれより北の山城国などを本拠地とする豪族です。この豪族は天皇家外戚として強い権力を持っていました。神功皇后が九州と縁が深いのは周知の事実ですが、ということはつまり息長氏そのものが九州勢力に属する一族であるということではないでしょうか?大和までたどり着いた少彦名は大国主や大物主のいる橿原や桜井の地から少し離れた、奈良県北部・京都府南部のあたりを本拠地としたのではないでしょうか?そしてそれが息長氏となり、神功皇后の時代になってもずっと少彦名を信仰していた、ということでしょう。



さあ、ここまでで国作り神話の謎が解き明かされました。
つまり、大国主は出雲の人々であり、少彦名は九州の人々であった。そして彼らは協力して大和までたどり着いたがやがて出雲の人々と九州の人々は離れ離れになり、それが「少彦名の常世行き」という話になった、ということです。


ここまで来たんですからついでに日本神話の中でも最も重要な神話である「神武東征」についても見ていきましょう。

神武東征

さて、こうして国を作った大国主なのですが、のちの「国譲り」と言われる神話によって、天照大神の子孫である天孫「瓊瓊杵(ににぎ)尊」に国を譲ることになりますが、この瓊瓊杵尊が天界から地上へ降り立ったのはこれまた九州の高千穂という土地です。そして時代が下った神武天皇の時代になって、九州から瀬戸内海を渡って近畿地方へと渡り、その地にいた敵対する勢力を破って大和を手に入れます。
このときに神武天皇側には数々の協力者がいたことが語られるのですが、それは少し変な話ではないでしょうか?神話によると神武天皇は「海の向こうに素晴らしいところがあるらしい、そこを治めよう」と言って初めて紀伊半島のほうを目指します。それまで存在を知らなかったのに渡った先でいきなり協力者がいるというのはどう考えてもおかしいと言わざるを得ません。つまることろ、神武天皇側には紀伊半島内部とすでに何らかのつながりを持っていたというわけです。
それをこう解釈するとどうでしょうか?つまり、「国作りの段階で大和周辺に本拠地に構えることに成功した息長氏はしかしなおも九州地方と強いつながりを持っており、出雲勢力が王朝を築いた後に九州地方にいる本家と連携し出雲勢力を排除することによって大和の支配権を手に入れた」ということです。九州地方にいる本家というのがずばり神武天皇だったのです。実際、初めは橿原や桜井のあたりに集中していた古墳群がある時期を境にぱったりと無くなり、それと同時に奈良県北部の息長氏が本拠地としていたあたりに古墳が作られ始めた、というのは考古学上における事実です。

この部分をまとめるとこうなります。初めは三輪氏と結託した出雲勢力が奈良県橿原のあたりで権力を握っていたが、神武東征という物語にあらわれる九州勢力の巻き返しにより出雲勢力が排除され、権力の中心も奈良県北部へと移っていった、というわけです。

まとめ

どうでしょうか?
少彦名を九州地方の神であるという説を用いることによって今まであくまでそれぞれ独立した神話でしかなかった国作りや神武東征といった話をあるまとまった歴史として把握することができるようになったのではないでしょうか?
私は歴史学や考古学に関してはただの門外漢であり、当然今ここで述べた論にもなんの学術的根拠もありません。したがって、これを読んでくださった皆さんもどうかこの話は眉唾物として記憶しておいてください。
しかし、案外こういうのが真実なのかもしれませんよね。
間違っていることも多々あると思いますので、「ここはこうだからその説は成り立たない」という点があればバシバシコメントしてくださればと思います。
ありがとうございました。