お米 is ライス

C#やらUnityやらを勉強していて、これはメモっといたほうがええやろ、ということを書くつもりです

鵜飼さんをたどって

ここで一句

このブログ、ソースはほとんどウィキペディア

鵜飼さんとは

これまで記紀に関する調べ物をしていて気になっていたことがあります。
それは、何らかの(戦闘と関係があるとは思えない)職掌を持っている人たちがやたらと出てきて活躍することです。
その中でも顕著だと思ったのが、神武東征神話の中に登場する"久米歌"といわれる何編かの長歌です。
この歌は第二次世界大戦の折に戦意高揚のため使われた「撃ちてしやまむ」という言葉のもととなっている歌であり、「敵を打ち負かしてやろう!!」という心意気のこもった歌となっています。
しかし、山椒の実で口をヒリヒリさせたり、韮の芽を根っこから引き抜いていたりと、およそ戦っているとは思えないような比喩が頻繁に使われています。
というのも、昔は戦闘を生業にする人々などほとんど存在せず、普段は農業や漁業によって生計を立てていた人々がいざというときに戦っていたからで、そういった人々の活躍を表現するためにこのような比喩が使われたのでしょう。
したがって、この比喩の部分を注意深く見てやることでどこの誰がその時に活躍したのかということが見えてきそうです。

さて、そこで久米歌の一つ、

楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね
<現代語訳>
楯を並べて伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、
我々は腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐ助けに来てくれ。

http://amanokuni.blue.coocan.jp/kumeuta.htmより)

という歌に注目してみます。
この歌では伊那佐という山で戦っているときに鵜飼部という人たちに助けを求めています。
ここから、久米氏という宇治族のうち鵜飼部というおそらくは鵜飼を生業としていた人々が伊那佐という土地に住んでいたことがわかります。
鵜飼とは文字通り鵜(う)という鳥を飼っている人々のことで、鵜を操って魚を捕ることから、「腹が減った」といって助けを求めるのもうなずけます。
あとは伊那佐がどこなのか、ということですが、奈良県宇陀市に伊那佐村があるとのこと(伊那佐村 - Wikipedia)なのでおそらくここのことでしょう。

久米氏について

ここで久米氏という人々について少し説明しておきます。
久米氏については久米氏・山部氏が詳しいのですが、もともと九州のほうにいた人々で主に漁業を生業としていた海の民です。
熊本県の"クマ"、球磨川の"クマ"、熊襲の"クマ"という音と久米氏との関係も気になります。
というのも、古代における日本語では母音が変わっても同じ言葉、あるいは近しい言葉であることがままあります。つまり"クマ"と"クメ"も変化しうるのです。
この「k〇m〇」という言葉に注目していると熊野大社の"クマ"や上賀茂神社下鴨神社の"カモ"、はたまた神の"カミ"など、さまざまな言葉との関係を疑えて楽しいです。

鵜飼さんの出身地

記紀の別の記述によると、

梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり

鵜飼い - Wikipediaより)

ということで、阿太という(おそらくは)地名とも関係があることがわかります。("アダ"という音を聞くと宇陀市の"ウダ"という音との関係を疑いたくなってしまいます)
この"アダ"という地名ですが、別の神話においても登場します。
天孫降臨神話においてニニギがコノハナサクヤヒメと結婚をするのが阿多というところであり、引用元によればそれは薩摩半島西南部を広く表した地名であったということです。
inakaseikatsu.blogspot.jp
これらの"アダ"が同源であるとするならば、鵜飼さんは古くは九州地方でも活躍していたと捉えることができるのではないでしょうか。

神功皇后と鵜飼さん

神武東征の話において活躍する鵜飼さんですが、神功皇后とも少なからず関係をもっています。
というのも、三韓征伐の際に使用した船を和歌山県和歌山市にある紀三所神社(志磨神社・静火神社・伊達神社)という場所に祀ったという話があります。そしてWikpediaによると静火神社の神官は鵜飼さんが務めていたのだそうです。
この紀三所神社の近くには日前(ひの"クマ")神社や竈山("カマ"やま)神社などといった神社が存在しており、先に述べたロジックにより久米氏との関係もあるのではないかと思います。ということはこの鵜飼さんも久米氏の鵜飼さんなのではないでしょうか。
なぜ三韓征伐で用いた船をわざわざ紀伊の国までもっていったのか、なぜ鵜飼さんを神官としたのか、という疑問とともにこの話を再解釈するとかなり素直に次のようになるかと思われます。

神功皇后は海の民である久米氏の協力を大いに受け、三韓征伐に成功した。この久米氏の中には阿多からやってきていた鵜飼部も含まれていた。
三韓征伐ののち、大和入りの際にも神功皇后は久米氏に協力を仰ぎ、鵜飼部もこれに従った。
瀬戸内海を渡り畿内にたどり着いた神功皇后は紀の国をも掌握し、三韓征伐や大和入りなど諸々の功を労って鵜飼氏に紀三所神社周辺の土地を治めさせた。

ちなみに紀三所神社にほど近い海岸沿いにはこれまた神功皇后が祀ったことが始まりとされる淡嶋神社があります。

鵜飼さんをたどって

こうなってくると、神武東征に出てくる鵜飼さんと神功皇后により神官の地位を与えられた鵜飼さんとを繋げてみたくなってくるのが人情というものでしょう。
というわけで、奈良県宇陀市にある伊那佐村と和歌山県和歌山市にある静火神社とをグーグルマップで確認してみましょう。すると意外にも容易く両者を繋げることが可能であるとわかります。
www.google.com
そうです、JR和歌山線が通っています。という冗談はさておき、紀ノ川の上流と下流にそれぞれ位置していることがわかります。この紀ノ川のおかげで静火神社のある和歌山市から伊那佐村の手前となる五條市までは低地となっており、そのため交通が盛んであったのは想像に難くありません。また、古代においては河川を使った水路も非常に重要な交通手段であったので、紀ノ川を通じて往来があったのはもはや明確と言ってもいいでしょう。
つまり、紀三所神社周辺を与えられた鵜飼さんが紀ノ川を遡り内陸へと移住していったのが伊那佐村の鵜飼さんなのではないでしょうか?
あるいはもともと紀ノ川沿いを支配していた鵜飼さんに神功皇后が協力を仰ぎ、その見返りとして紀三所神社周辺の支配権の正当性を認められたというストーリーも考えられます。
この考えを補強するかのように、中間地点である奈良県五條市には阿田という地名が今でも残っています。

まとめ

神武東征における鵜飼さんと、神功皇后の大和入りにおける鵜飼さんとは元をたどれば同じ氏族であり、九州から紀三所神社周辺に移住したのち、紀ノ川沿いに伊那佐村周辺に展開していったのではないか。
この考えが正しいかを見極めるため、これら2点を結ぶ線上に存在する地名や神社、遺跡などの総合的な分析を今後の課題とする。